ため息はなぜでるか?
疲労とため息は別ではないかと。ため息って、ひとりごとと同じなんではないだろうか。抑圧しきれずにはみ出た感情の一片。抑圧されているものは見えない。はみ出たものがヒントだ。
考えて良くなること2
考える時間は"繋ぎ目"くらいに考えておけば良い。作業と作業の合間の"繋ぎ目"だ。土日は、なぜ繋ぎ目だらけになってしまうのか?作業が決まってないからだ。平日は待っていれば、仕事が降ってくる。電話もかかってくる。何も考えていなくても、仕事が向こうからやってくる。しかし、休日はそうはいかない。繋ぎ目が繋ぎ目と分からなくなるほど。休日の時間を良く過ごすことは難しい。このことを念頭に置いてから休日に臨まねば、結局また堕落に溺れるだけで、良くなることは無い。
考えて良くなること
考えて良くなることってあるのだろうか?考えて→良くなる。「考える」と、「良くなる」ことの間に「考える」だけしかなければ、そういえるかもしれない。では、「考える」を続けていたら、いつ「良くなる」のか?
考える時間は適度でいい。長々と考えるなんて、ヒマ人にしかできない。小人閑居して不善を為すという言葉の通り、たいていの人間はヒマにしていると良いことはしない。ヒマにしている時間は自我(エゴ)が支配する時間で、大抵の場合は公益的なことに費やされることはなく、社会性や社交性を伴わなくても何とかやっていける時間であり、社会から離れた混沌にしてしまっても、それほど責められることはない。混沌がいくら増えても「良くなる」ことがないとしたら、ヒマな時間は・・・やはり数分あればいい。
では、どうしたら「良くなる」のか?
面白い人とは
面白そうな人は、面白いか。面白そうなところは面白くないだろう。どんなことでも分かっている部分や、分かっている部分から敷衍して想定できる部分は、大して面白くないのだろう。意外なところ・想定外のところが面白いのだろうと思う。
「やりたいこと」は面白いか。
「やりたいこと」について考えるとき、その「やりたいこと」は想定内のことだろうから、実際やったとしても、それほど面白くないだろうと思う。
「やりたいことはありませんか?」と聞かれたときに思い浮かべる「やりたいこと」なんて、その程度にしかなりえない。だとすれば、何が面白いか?たぶん、想定外のことだろう。想定できる範疇の外側。それが面白いかもしれない。
では、面白いであろう想定外のことは想定できるか?想定できるはずもない。というわけで、面白いことは想定外のことなのだから、面白いことを想定するのはやめようと思う。
想定外のことは、“思いがけず”やってくる。それがいつ・どんなときか、想定することはできない。しかし、時間を過ごすなかで、多少は面白いことに出会えるような気がする。そういう予感ができるだけで、十分見込みはあるのであり、いつ・どこで面白いことに出会えるかを想定する必要は無いだろう。
またもや、考える必要のないことに気づいてしまった。この社会には、考える必要のないことを考えさせる仕組みがあるようだ。
恋愛とは何か
恋愛は良い経験もあり、悪い経験もある。いろいろな経験、いろいろな感情が味わえる。一人では味わえない時間が、じっくりと味わえるのである。これに意味を見出す人と、「そんなの無駄だよ、だるいだけ」と切り捨てる人と、どっちでもええという人がいて、ぼくは実に3番目なのである。
ああ、どっちでもええ。恋愛は良いときもあれば、悪いときもある。とっても疲れることもあれば、気分よいときもある。いろんなときがあるが、そんなことはどっちでもええんである。
良いとか悪いとかはっきりと分かるもんでもないし、なんだかモヤモヤとした時間、よくわからん時間である。それが恋愛。結構疲れる。疲れるが、食中毒で七転八倒して疲れるのとは意味合いが違うような、なかなか面白い疲れ方だと思う。疲れない恋愛なんて、したことない。必ず疲れる。ぼくが付き合う人はぼくよりスタミナがあるので、すごいと思う。ぼくは疲れやすい。
要するに、恋愛とは疲れ方の一種だと思う。