映画「cure」に思うこと


人々が抑圧している意識(憎悪)を催眠によって解放することにより様々な猟奇殺人事件を引き起こすマミヤ(萩原聖人)と、それを追っかけつつ催眠を克服&マスターしてしまうタカベ(役所広司)のお話。

何か書こうと思ったけど、眠くなってきたのでまた今度。

考えて良くなること2

考える時間は"繋ぎ目"くらいに考えておけば良い。作業と作業の合間の"繋ぎ目"だ。土日は、なぜ繋ぎ目だらけになってしまうのか?作業が決まってないからだ。平日は待っていれば、仕事が降ってくる。電話もかかってくる。何も考えていなくても、仕事が向こうからやってくる。しかし、休日はそうはいかない。繋ぎ目が繋ぎ目と分からなくなるほど。休日の時間を良く過ごすことは難しい。このことを念頭に置いてから休日に臨まねば、結局また堕落に溺れるだけで、良くなることは無い。

考えて良くなること

考えて良くなることってあるのだろうか?考えて→良くなる。「考える」と、「良くなる」ことの間に「考える」だけしかなければ、そういえるかもしれない。では、「考える」を続けていたら、いつ「良くなる」のか?

考える時間は適度でいい。長々と考えるなんて、ヒマ人にしかできない。小人閑居して不善を為すという言葉の通り、たいていの人間はヒマにしていると良いことはしない。ヒマにしている時間は自我(エゴ)が支配する時間で、大抵の場合は公益的なことに費やされることはなく、社会性や社交性を伴わなくても何とかやっていける時間であり、社会から離れた混沌にしてしまっても、それほど責められることはない。混沌がいくら増えても「良くなる」ことがないとしたら、ヒマな時間は・・・やはり数分あればいい。

では、どうしたら「良くなる」のか?

面白い人とは

面白そうな人は、面白いか。面白そうなところは面白くないだろう。どんなことでも分かっている部分や、分かっている部分から敷衍して想定できる部分は、大して面白くないのだろう。意外なところ・想定外のところが面白いのだろうと思う。

「やりたいこと」は面白いか。

「やりたいこと」について考えるとき、その「やりたいこと」は想定内のことだろうから、実際やったとしても、それほど面白くないだろうと思う。

「やりたいことはありませんか?」と聞かれたときに思い浮かべる「やりたいこと」なんて、その程度にしかなりえない。だとすれば、何が面白いか?たぶん、想定外のことだろう。想定できる範疇の外側。それが面白いかもしれない。

では、面白いであろう想定外のことは想定できるか?想定できるはずもない。というわけで、面白いことは想定外のことなのだから、面白いことを想定するのはやめようと思う。

想定外のことは、“思いがけず”やってくる。それがいつ・どんなときか、想定することはできない。しかし、時間を過ごすなかで、多少は面白いことに出会えるような気がする。そういう予感ができるだけで、十分見込みはあるのであり、いつ・どこで面白いことに出会えるかを想定する必要は無いだろう。

またもや、考える必要のないことに気づいてしまった。この社会には、考える必要のないことを考えさせる仕組みがあるようだ。

恋愛とは何か

恋愛は良い経験もあり、悪い経験もある。いろいろな経験、いろいろな感情が味わえる。一人では味わえない時間が、じっくりと味わえるのである。これに意味を見出す人と、「そんなの無駄だよ、だるいだけ」と切り捨てる人と、どっちでもええという人がいて、ぼくは実に3番目なのである。

ああ、どっちでもええ。恋愛は良いときもあれば、悪いときもある。とっても疲れることもあれば、気分よいときもある。いろんなときがあるが、そんなことはどっちでもええんである。

良いとか悪いとかはっきりと分かるもんでもないし、なんだかモヤモヤとした時間、よくわからん時間である。それが恋愛。結構疲れる。疲れるが、食中毒で七転八倒して疲れるのとは意味合いが違うような、なかなか面白い疲れ方だと思う。疲れない恋愛なんて、したことない。必ず疲れる。ぼくが付き合う人はぼくよりスタミナがあるので、すごいと思う。ぼくは疲れやすい。

要するに、恋愛とは疲れ方の一種だと思う。